プロフィール

祖父の代から家づくり

私が生まれ育った場所は、現在は合併して伊勢市になりましたが、昔は、度会郡御薗村といいました。まわりは田んぼばかりで、子どもの頃は、稲刈りしたあとの藁を集めてきて、家をつくって遊んだりしてました。実家は建設業で、住み込みで大工さんが何人かいましたね。自宅兼事務所兼刻み場といった感じで、大工の中で育ちました。祖父は大工とみかん農家を半々、父は大工から萩原建設を興しました。

建築への意欲を無くした時、
一冊の本に出会う

代々、家づくりをしてきたので、自分も建築の道に進むんだろうと思っていて、大学は建築学科を受験したのですが、現役の時に受験した大学に全て落ちて浪人。名古屋の予備校に通ったのですが5月病にかかり、本当に建築でいいの?という疑問が湧いてきて、勉強の意欲を無くしてしまったのです。

『フランク・ロイド・ライト〈第1〉』 (1967年) (現代建築家シリーズ):美術出版社

そんな時、名古屋の大きな書店で、ぼんやり建築の棚を眺めていると、偶然、不思議な表紙の本を手に取りました。そこには書かれていたのは「F.LL.Wright」という文字。近代建築の三大巨匠と呼ばれるフランク・ロイド・ライトの作品集でした。パラパラとページをめくると、「こんなすごい建築が世の中にあるのか!」とびっくりするような建物がたくさん並んでいました。その場で1時間ほど眺め、「やっぱり建築やな!」と意欲を取り戻したのです。その本は2500円で、これを買うと晩ごはん食べられなくなる、と随分悩んだのですが、結局買いました。私の人生を変えた本で、今でも大切に持っています。

名古屋で「つくる研究所」を設立
しかし、実家ではたいへんなことが…

名城大学建築学科に入学、それからは建築に燃えた4年間でした。「全国建築系学生会議」という団体に所属し、東京や大阪の建築学生と交流したり、有名建築を見て廻ったり勢力的に動いていました。卒業後は大学の先生の設計事務所で働きました。当時、現代美術の画廊としては、日本で3本の指に入っていた「桜画廊」のバックヤードに設計事務所があって、現代美術作家やいろんなな建築家が普通に出入りする、にぎやかで刺激的な日々でしたね。そして29才の時に独立。友人と「石井・萩原建築事務所」を名古屋の伏見に事務所を構えました。

その後、結婚して子どもができたり、住まいを引っ越ししたりして、事務所も別々にすることになり、1991年に一級建築士事務所「つくる研究所」を立ち上げました。

「つくる研究所」って、不思議な名前だとよく言われます。これは、建築にかぎらず、「人の生活をつくること」全般をやっていこうという思いから考えた名前です。一見、何の会社かわからないと思いますが、会社とは実績が内容を決めると考えています。

そんな折、突然父が病に倒れてしまいました。現場監督が7人の小さな会社ゆえ、社長が倒れると、途端に事業が混乱し始めます。伊勢には戻らない、会社は継がないとい名言してきて、父が倒れても従業員でなんとかやっていけるのではと一度は考えましたが、現実派そういうわけにもいかず、結局、家業を継ぐために、伊勢に戻ることにしました。36才の時で、名古屋で設計の仕事をはじめてから12年ほどが経っていました。

伊勢でもやりたい仕事ができる!
けど、公共工事とハウスメーカーの仕事も

伊勢に帰ることを決めた当時は、萩原建設の仕事は公共工事やハウスメーカーの仕事が多く、設計料をもらえるような仕事はほとんど無いのではと絶望的な気持ちだったのですが、実際に伊勢に帰ってみたら、ユーザーの意識は都会と同様で驚きました。地方でも、本や雑誌で紹介されているような自然な木の家を求めている人が確実に居るのに、それを実現できる業者が居ないのです。それで、予想よりも自分のカラーを出した仕事ができたのです。

しかし、父の仕事を交代したのですから、しばらくは猛烈に忙しい日々が続きました。引退した父に代わり、業界の会議、役所まわり、銀行の会合、ハウスメーカーの会議への出席など、時間が全く足りない日々です。そんな生活を2年ほどしていたら、とうとう胃潰瘍になって死線をさまようことになりました。38才の時です。医者によると原因はストレスとのこと。性に合わないネクタイをして、やりたくない仕事まで引き継いだために起きたことでした。

背水の陣で、
萩原建設を再スタート

悩んだ末、公共工事とハウスメーカーの仕事を数年かけて無くし、お客さんと直接向かい合っての家づくりに専念することに決めました。病気になってまで、やりたくない仕事をしたくないということだけでなく、ハウスメーカーの仕事では「萩原建設」の名前が正面にでてこないことがありました。大工が、「萩原建設は、もう個人住宅はやらないの?」と、地元の人から言われたそうです。「いくらハウスメーカーの家をつくっても認められない」と、ぼやいていたのを耳にしたのでした。そこで「これからは公共工事もメーカーの仕事はしない!」と社員の前でネクタイをゴミ箱に捨てて宣言しました。小回りのきく小さな会社にするために何人かの従業員に辞めてもらい、現場監督が一人だけになってしまうと、今度は逆に仕事がまわらなくなり、人を増やすことになりました。

共に学び合う、
「みえ木造塾」の立ち上げ

これまで以上に本格的に木住宅に向き合うようになって、地元の木を使い、地元の職人さんたちと進める家づくりについて、知らないことや出来ないことが多いことに改めて気が付きました。そもそも、自社の作業場の中に地元のスギやヒノキは全くなく、外材や合板ばかりだったのです。材の仕入れルートから開拓することになりました。

そんな中、同じような思いをもつ仲間たちと2003年に始めたのが「みえ木造塾」です。木造に限らず、阪神淡路大震災以来、木造の耐震に対する不信感、欠陥住宅やシックハウスの問題など、諸問題に対抗していく実務的な知識が足りていない状況に危機感を覚え、都会で開かれる講習会などを受講しても、それでは、自分だけしか変わらないことに気が付きました。仕入れた知識を地元で話しても、人づての話では説得力になりません。そこで、三重で勉強会を開き、それに仲間たちで参加することで、全員のレベルアップを図りました。設計士だけでなく、現場監督、大工、製材業、林業、行政、学生と、木造にかかわる関係者全員で、同じ講座を聞き、研鑽を続けることで、いつの間にか地元材で建てることができ、職人の理解もえられるようになりました。みえ木造塾には、毎回80人くらいがコンスタントに集まってきてます。参加者はほとんど三重県内の人ですが、中には遠く和歌山や東京から来てくれる人もいます。貴重な仲間ができてきました。

みえ木造塾の活動は今年で15年つづいています。そのかいあって、現在では地元のスギ、ヒノキを自由に問題なく使うことが出来るようになりました。県内外のネットワーク、歴代の講師の先生とのネットワークも出来、伝統的構法や板倉構法の家づくりも手がけるようになりました。

そして、
「未来の古民家」へ

現在の萩原建設/つくる研究所のテーマは「未来の古民家をつくる」です。それは単なる懐古趣味ではありません。そもそも今、古民家と言われている家も、新築として建てられた当時の時代背景や地域のさまざまな条件から生まれたものです。その時代に手に入った材料、その時の職人が持っていた知識と技術、その地域の気候風土…。そういったものが交わったところに、その家があるわけで、家のななりたちというものは、時代によって変わっていきます。ただ一つはっきり言えるのは、古民家として今も残っている家は、時代の変化や家族の変化に柔軟に対応し、時にはその用途までも変えながら、持ち主に「この先も残したい」と愛され続けてきたものだけということです。

現代では、世の中には工業製品があふれ、さまざまなものが、安く、早く手に入るようになりました。それは住宅も例外ではなく、工業製品を多用することで、工期はうんと短くなり、熟練工でなくともつくれることから、住宅の価格は下がりました。しかし、それは住宅の寿命を短くすることにもつながったのです。部材が廃番になってしまえば、それを使った箇所は同じようには直せません。不具合が起きると、メーカーのサービスマンに来てもらわないと直せないことも多々あります。どれだけ存続しているかわからない「企業」というものに、家の寿命が左右されるようになったのです。

萩原建設/つくる研究所では、県産のスギ、ヒノキを天然乾燥で使い、地域の職人の技を多用した家づくりをしています。基本的な骨組みは木組みで行いますが、現代の技術も取り込んでいきます。それは、その家に永く住み続けてもらいたいからです。家を長持ちさせることが、地域の山や森、地域の職人に元気でいてもらうことにも繋がります。「おじいちゃんが建てたこの家に、私も住み続けたい」と思ってもらえるよう、時間をかけて設計し、手間隙をかけて施工します。そうすることで、「未来の古民家」となる、愛される家づくりを実現したいと、日々、努力を続けています。

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